21. 日米が戦争しているなかで日系アメリカ人であることのジレンマ、しかし両国ですべての人が苦しんだ。

両親の顔は敵国人の顔だし、自分も敵国人みたいに見える。しかし非日本人の友達がいる、となると、やはりその人達に対してすなまいと感じてしまうわけですよ。彼らは日本国の人たちと戦っていたのですから。でもこちらはまだ日本に繋がり… 続きを読む 21. 日米が戦争しているなかで日系アメリカ人であることのジレンマ、しかし両国ですべての人が苦しんだ。

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20. 非日系の友人の兄弟が第二次大戦で亡くなりましたが、友情は続きました。

K – Kayoko Wakita P – Pauline Fong K 私の兄弟(友達の兄弟)のバッドが私たちをエスコートしてくれましてね、それは良い気分でした!迎えに来てくれるのですよ。私は学校に友達がい… 続きを読む 20. 非日系の友人の兄弟が第二次大戦で亡くなりましたが、友情は続きました。

19. フラートンのアトキンズ婦人からバレー、タップ、ピアノを学ぶ

やがて、私の両親は私をバレエとタップダンスのスクールに入れました。これは私の体重が増えてきたからだと思います。それからしばらくして、今度は「あなたはピアノを習ったらいいと思うわ。あなたにはピアノが向いている」と両親に言わ… 続きを読む 19. フラートンのアトキンズ婦人からバレー、タップ、ピアノを学ぶ

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18. フラートン・カレッジのアニタ・シェパードソンを通じた西洋音楽との出会い

覚えているのは、アニタ・シェパードソンというとても素晴らしい大学の先生がいたことです。この先生はある年日本に行って、日本をすごく好きになったので、日本クラブというのを作ったんです。そして私たちが西洋音楽に触れられるように… 続きを読む 18. フラートン・カレッジのアニタ・シェパードソンを通じた西洋音楽との出会い

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17. 戦時中、黒人街、ブロンズヴィルと化したリトル・トーキョーには、大好きな黒人ピアニスト兼シンガーのハダ・ブルックスがよくやって来ていました。

(リトル東京は)ブロンズヴィル(赤銅色の街)と呼ばれていました、黒人がそのエリアに移住して来ていたからです。それで私たちはあまり頻繁に行かなくなりましが、そのうちにだんだん日本人も、前にいた場所で商売を再開するために戻っ… 続きを読む 17. 戦時中、黒人街、ブロンズヴィルと化したリトル・トーキョーには、大好きな黒人ピアニスト兼シンガーのハダ・ブルックスがよくやって来ていました。

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16. 中国人と韓国人は、人種差別を避けるために日本人から距離をおいていた。

わかっていないといけないのは、戦時中、中国人は「私は中国人です」というバッジを付けていたし、コリアンは「日本人を一番嫌っています」という襟章をつけていましたから、私たち日本人は逃げ道がなくなってしまったんです。でもね、彼… 続きを読む 16. 中国人と韓国人は、人種差別を避けるために日本人から距離をおいていた。

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15. 戦後、強制収容所から帰還したロサンゼルスで直面した激しい人種差別

戻ってきたらもっと酷かったんです。ここでは(聞き取れず)が、もっとあからさまでした。「お前は受け入れないよ。うちはお前らに家族を殺されたんだ、親戚が銃で殺されてるんだ」と。これは打撃でした。仕事も同じことで、まさかと思う… 続きを読む 15. 戦後、強制収容所から帰還したロサンゼルスで直面した激しい人種差別

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14. 戦前は、ほとんどの日系の子どもたちが何らかの日本文化の習い事をしていた。

それはね。移民の家族なら誰しも、自分達の社会的地位の向上を望んでいると思いますよ。それに非常に階級意識の強い国からやって来て、来てみたら、もっとずっと自由でいられて、子供に芸事を学ばせる機会やそのための収入が持てる…… … 続きを読む 14. 戦前は、ほとんどの日系の子どもたちが何らかの日本文化の習い事をしていた。

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13. 日本人街の人々の仲間意識と、西本願寺オーディトリアムや二世週祭りでの日本芸能への彼らの支援

私が子供の頃の日本人街を思い出してみると、今からは想像もつきませんよ。子供がうろちょろ歩き回っても大丈夫でしたし、そうすると私を見かけた大人が「お母さんは食料品店にいるよ。迷子にならないようにね!」などと言ってね。そんな… 続きを読む 13. 日本人街の人々の仲間意識と、西本願寺オーディトリアムや二世週祭りでの日本芸能への彼らの支援

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