父の話に戻ると、彼はアメリカに残ることを望んでいました。博識な人でしたね。面白い人で、よく笑って、「学校に行くと本当に下らないテストをやらされるから、テスト用紙に「0」と書いて、机の上に放り投げて出てったよ」と言っていました。生意気だったんです!でも学ぶことが大好きでしたからね。やがてアメリカにやって来た時に、この国に選択の自由があることをその目で見て、彼が望んだことは何でも学ぶことが出来るということを経験し、この国に魅せられたのです。運転を学びたかったら運転を学ぶ自由があるのです。
もちろん、アメリカに来たら誰でも車が欲しいですよね。でも車の数は多く無い。それでも彼は絶対車を持つと決めていました。それで勉強をして自動車修理工になり、そうやって車を買ったんです。
父はハウスボーイもしていましたから、学校に通うことができました。でも私が思うに、彼は少し時代の先を行っていたんですよ。出来うる限り勉強をするという固い意志をもち、英語を学びました。父親とホテル暮らしをしていた時には、聖書を読んでいましたから、しばらくの間少々風変わりな英語を話していました(微笑)。でも最終的に父は禅宗の仏教徒になったんです。彼はおそらく私が知っている誰よりも全ての宗教についてよく知っていたと思います。
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記事一覧
- 1. 両親は尺八と箏を演奏しました。1920年代に人種差別を経験しています。
- 2. 両親はロサンゼルスでレストランを経営して成功する傍ら、邦楽を近所の人に教えていました。
- 3.ジャネット・ゲイナー(女優)は両親の音楽が大好きでした。
- 4. 父はなぜハウスボーイ(住み込みの下男)をしながらアメリカに残りたかったのか。
- 5. 父の実家、岡山県での階級差別
- 6. 祖父のような裕福な家の子息たちはアメリカの生活を視察に来ていました。
- 7. 母も裕福な家の出で、アメリカで歯科医になることを目指していました。
- 8. 一世は懸命に働き、二世が日米の橋渡しになることを望んでいました。
- 9. 両親は、日本の伝統的なしきたりをアメリカでは取り払い、違う流派の音楽家とも活動しました。
- 10. 父と日本の尺八制作者との文通
- 11. 母は生田流の箏曲家でしたが、山田流の友人とリサイタルを開いていました。
- 12. 日本舞踊家の藤間勘須磨と坂東三津佐との共演
- 13. 日本人街の人々の仲間意識と、西本願寺オーディトリアムや二世週祭りでの日本芸能への彼らの支援
- 14. 戦前は、ほとんどの日系の子どもたちが何らかの日本文化の習い事をしていた。
- 15. 戦後、強制収容所から帰還したロサンゼルスで直面した激しい人種差別
- 16. 中国人と韓国人は、人種差別を避けるために日本人から距離をおいていた。
- 17. 戦時中、黒人街、ブロンズヴィルと化したリトル・トーキョーには、大好きな黒人ピアニスト兼シンガーのハダ・ブルックスがよくやって来ていました。
- 18. フラートン・カレッジのアニタ・シェパードソンを通じた西洋音楽との出会い
- 19. フラートンのアトキンズ婦人からバレー、タップ、ピアノを学ぶ
- 20. 非日系の友人の兄弟が第二次大戦で亡くなりましたが、友情は続きました。
- 21. 日米が戦争しているなかで日系アメリカ人であることのジレンマ、しかし両国ですべての人が苦しんだ。
- 22. 父は言った「お前たちはアメリカ人だということを忘れてはいけない。たとえ収容所に入れられようとも」
- 23. 戦後再開した両親の中国料理店「青島」は大盛況で、多くの有名人*が訪れ、『ヴァラエティ』誌でも取り上げられた(*ロイド・ブリッジス、ベティー・ローズ、ドロレス・コステロ、ジョン・バリモア、レアード・クリーガーなど)。
- 24. 両親のレストランは、兄、叔父、叔母、そして日本人の友人から養子として引き取った男の子で経営されていました。
- 25. 私の非日系の友人たちは、収容所に行くことになった時、サイン帳にメッセージを書いてくれて、イースターにギフトを送ってくれた友人もいました。
- 26. 短大の音楽の先生は、親切にも両親の楽器を預かってくれて、後からマンザナー収容所に送ってくれました。
- 27. 気持ちを奮い立たせてくれる音楽の力
- 28. 父は尺八を収容所に持っていき、貯水湖の夜警をする傍ら同僚に教えたり、演奏したりしていました。
- 29. 音楽は生きる情熱です。音楽は違う世界に連れて行ってくれます。
- 30. 母は収容所で箏を教え始めましたが、箏は二面しかなかったので、練習には間に合わせの代替品を使っていました。
- 31. リサイタルは食堂で開催され、多くの人が準備に関わり、その中で幸せと平和がもたらされました。
- 32. 邦楽だけでなく、ギター、マンドリン、ウクレレなどのレッスンもありました。レコードはカタログ注文で購入していました。
- 33. 友人に預けていた着物は、後に収容所に送られてきました。カタログ注文で布を購入して収容所で着物を作ることもありました。
- 34. 収容所では箏譜は手書きで写譜され、人々の間で貸し借りされていました。
- 35. 父は日本の伝統音楽について日本語でたくさん書き溜めていましたが、収容所に行く前に全て燃やさなければなりませんでした。
- 36. 人々は尺八と箏を椅子に座って演奏できるように、楽譜台を作りました。
- 37. 父は、2~3本の尺八を収容所に持ってきていました。他にもそのような人はたくさんいました。
- 38. 父は宮城道雄の近代的な作品を演奏することが多かったのですが、収容所で玉田如萍に本曲を学びました。
- 39. 母は、長唄や小唄など、いくつかの異なるジャンルの三味線を演奏しました。母の義理の妹も小唄を演奏しました。
- 40. 検校の娘である中島千穂子はポストンからマンザナーを訪れ、三絃を教授し、また演奏会を行いました。
- 41. 中島千穂子の父は、日本からいろいろなエンターテイナーを招聘し 、日本人街のエンターテインメントの中心地だった大和ホールで演奏させていました。
- 42. 私は父に収容所にフィルコ真空管ラジオを持ってきてもらい、それが私の最良の友となりました。
- 43. 私のピアノ教師の夫は、彼らの親族がいるロサンゼルスに私たちの家族を車で連れて行ってくれました。彼らはと会ったのは、それが最後で、彼らは戦中に亡くなりました。
- 44. 収容所に入って初めて、両親は働く必要がなくなり、クラフトや音楽を楽しんでいました。
- 45. ルー・フリッゼルが書いたミュージカルを収容所で上演し、リリアン・ワカツキがソロを歌いました。私は合唱でした。
- 46. 収容所を出たあと、父は千崎先生の弟子になり生涯師事しました(千崎如幻:アメリカで活動した臨済宗の僧侶)。
- 47. 収容所の教師や管理者は別の地域にあるいい家に住んでいて、徒歩で収容所に来ていました。
- 48. 収容所から出てきた人たちは、ひどい人種差別のために、侮辱され、拒絶され、受け入れられませんでした。
- 49. 戦後、私はフルタイムで働き音楽を教えながらに大学に通いました。学位を取得するまでに20年かかりました。
- 50. 戦前のリトル・トーキョーには、着物や反物を売るデパート2件の他、いろいろなビジネスが営まれていました。
- 51. 日本からきた日本人の中には、リトル・トーキョーでナイトクラブを開いて、日本からダンサーを呼び寄せ、日本から帰国した退役軍人を相手にしている人もいました。
- 52. フォックススタジオは、ちょっとした日本人役を必要としていました。私は『Go for Broke! ハワイ日系二世の記憶』で日本人の妻の役を演じました。カットされてしまいましたが。
- 53. 映画で邦楽器をひくために、音楽家ユニオンに入っていました。それで大学の学費を賄いました。
- 54. 最悪だったのは、男子たちがヨーロッパ戦線で戦うために収容所から徴兵されたことです。ダニエル・イノウエによるとヨーロッパに着くまで拳銃は取り上げられていたそうです。
- 55. 両親は中島千穂子(父が検校だった偉大な箏曲家)と、互いの家でインフォーマルに古典曲を演奏したものでした。
- 56. シャーリーの語り。彼女の息子は沢井流の現代曲で箏に興味をもち、やがては師範目指して学ぶようになった。
- 57. 戦後、退役軍人にさえ大きな反発がありました。私たちが敵と同じように見えたからです。
- 58. 両親は毎週日曜、中華料理店の開店前に演奏していました。主に箏を弾く人、それに尺八や三味線を弾く人も、彼らと一緒に演奏しに来ていました。
- 59. 1950年代、パサデナの国際音楽祭で、正派の創立者、中島雅楽之都とその娘の中島安子の世話をしました。
- 60. 私は正派に入り、KFACラジオ放送で中島雅楽之都の曲を紹介しし始めました。私と私の母の弟子の多くが正派で名取になりました。
- 61. 放送は日系人以外の人々が私たちのコンサートに興味を持つ助けになり、やがて彼らが観客の半分を占めるようになりました。
- 62. 私たちのコンサートでは父と私でバイリンガルの司会を務め、音楽の歴史的な背景や西洋音楽との違いを説明しました。
- 63. 唯是震一と中島靖子から多くの新曲を学び、コンサートのレパートリーを広げました。
- 64. 西洋音楽の教育を受けた唯是震一は、箏と尺八のために多くの曲を書きました。
- 65. 震一と中島靖子から多くの新曲を学び、コンサートのレパートリーを広げました。
- 66. 震一と中島靖子から多くの新曲を学び、コンサートのレパートリーを広げました。
- 76. 流派に関わらず、優れた尺八奏者を見つければ、いつでもみんなを呼んで演奏を聴きました。
- 68. 流派に関わらず、優れた尺八奏者を見つければ、いつでもみんなを呼んで演奏を聴きました。彼は1.5mもあるような尺八を演奏し、棒でエクササイズをしていました。
- 69. 父には、私たちのコンサートに魅了された非日系の弟子たちがいました。
- 70. かつての弟子とともに唯是震一の大規模な合奏曲を舞台演奏し、そのお返しに彼らのファンドレイジングのために演奏しました。
- 71. 日本語がわかることで伝統音楽をより深く理解し、英語で説明することができました。